呉服三代の意味|奈良の呉服店が見てきた着物の本当の価値

先日、こんなことがありました。
ご来店になったお客様が、風呂敷包みを大切そうに抱えてお店に来られました。開けると、たとう紙に包まれた振袖が一枚。
「祖母が誂えてくれた着物なんです。母も着て、今度は私の娘の成人式に着せたいと思って」
広げてみると、昭和40年代の手描き友禅。年月を経ているのに、地色の深い緑が少しも褪せていない。丁寧に管理されてきたことが布から伝わってくる、品のある一枚でした。
「お祖母様はいつ誂えられたのですか」とお尋ねすると、「私が生まれた年に、ということです。50年以上前になります」とおっしゃいました。
50年。その時間の重さを、私はその振袖の中に感じました。
◇ ◇ ◇
一 「呉服三代」という言葉について
着物の世界には「呉服三代(ごふく3だい)」という言葉があります。
一着の着物が三世代にわたって使われるということ——祖母から母へ、母から娘へ。着物という衣が「消耗品」ではなく「受け継がれるもの」であるという考え方が、この言葉の中に凝縮されています。
当店は明治の創業から四代目を迎えますが、お付き合いしているお客様の中には、三代目・四代目という方が本当に大勢いらっしゃいます。
お祖母様が当店でお求めになった着物を、お母様がお召しになり、今度はお嬢様の晴れの日に——。そういう着物の旅に立ち会わせていただくたびに、私は「着物とは何か」ということを改めて考えます。
着物は布ではない。纏った人の時間が染み込んだものだ。 ——先々代女将の言葉
先々代女将——私の祖母——がよく口にしていた言葉です。その意味が、今になってしみじみとわかります。
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二 田中家の着物——ある家族の五十年
田中家(仮名)とのお付き合いが始まったのは、先代の時代のことです。
田中さんのお母様——今は90代になられますが——が初めてご来店になったのは、ちょうど昭和40年代のこと。当時30代だったその方は、お子様の七五三のための着物のご相談でいらっしゃいました。先代がお話を聞きながら選んだのは、落ち着いた江戸小紋の一枚。「長く着られるものを」という先代の提案を、お母様はすぐに受け入れてくださったそうです。
その江戸小紋は、その後も何度もタンスから出てきました。お子様の入学式に。近所の茶会に。お母様にとってのいちばん気軽な「よそ行き」として、長く活躍しました。
数年後、今度は娘様——田中さんご本人——の成人式のお誂えで再びご来店になりました。選んだのは、白地に赤と金の振袖。「娘にはせいいっぱい華やかなものを」というお母様の気持ちが、その着物には込められていました。
田中さんがその振袖を纏って成人式に出かけたのは、今から四十年以上前のことです。
そして先日——田中さんが風呂敷包みを持ってご来店になりました。
「娘の成人式に、この振袖を着せたいんです。母が私に着せてくれた振袖を、今度は私が娘に着せる番だと思って」
広げると、四十年の眠りを経てもなお美しい振袖が現れました。いくつかシミが見つかりましたが、専門のクリーニングと染色補正で十分蘇ると判断できる状態でした。
「直せますか」と問うお顔に、期待と不安が入り交じっていました。
「大丈夫です。必ず娘さんに着せてあげられます」
そう答えながら、私は心の中で思っていました。この振袖はもう「ただの着物」ではない。お母様が娘のために選んだ気持ちと、その気持ちを受け取って大切に四十年保管してきた田中さんの愛情と、今度は自分の娘に同じ気持ちを伝えたいという願いが、すべてこの布の中に折り畳まれている。
その後解き洗いを経て仕立て直し、とても美しい振袖に上がってきました。
着物の価値は、纏った人の数だけ深まる。
呉服屋としてとても嬉しい瞬間です。
◇ ◇ ◇
三 着物が三世代を生き抜く理由
なぜ着物だけが、三世代にわたって使い続けられるのでしょうか。
答えは着物の構造にあります。
着物は直線裁ち——まっすぐ布を裁って縫い合わせた構造です。洋服のように体の曲線に合わせた型紙で裁断されていないため、解いて縫い直すことができます。体型が変わっても、別の人に譲っても、寸法を直せば「ぴったりの一枚」に戻ります。
田中さんの振袖が四十年後に娘さんに着られるのも、この「直線裁ち・手縫い」という着物の構造があってこそです。
それだけではありません。正絹の着物は、適切に管理すれば百年以上の耐用年数を持ちます。保管さえきちんとしていれば、着物は人間より長く生きます。今日誂えた訪問着が、孫の世代に渡ることは十分にあり得ます。
着物が世代を超えて使われるのは偶然ではありません。「解いて縫い直せる」「正絹は劣化しにくい」「正しく管理すれば百年以上もつ」という着物の本質的な性質が、三世代の使用を可能にしています。
そして最後の条件——それは「選ぶ時に、次の世代のことを考えること」です。
「自分だけが着ればいい」と考えて選んだ着物と、「娘にも着てほしい」と考えて選んだ着物では、自然と違うものが選ばれます。
流行の色より、時代を超えた色を。奇をてらった柄より、古典の柄を。
安価な素材より、正絹の深みを——。
「長く使われる着物」には、選ぶ人の「未来への眼差し」が宿っています。
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四 山本家の喪服——悲しみを包む布
着物が世代を超えて受け継がれるのは、慶事だけではありません。
山本家(仮名)のお母様が喪服を誂えられたのは、昭和の終わり頃のことでした。お嫁入支度として誂えていただきました。
「こんなに高いものでなくても」とお母様はためらわれたそうですが、先代はこう言ったと聞いています。
お母さん、喪服だけは一番良いものを。悲しみのときに纏うものが、その人の品格を作ります。黒の色が他の方と並んだ時にその力を発揮します。そして、これはきっとお嬢さんやお孫さんまで使えるものです。
その言葉の通りになりました。
お母様が亡くなられたとき、喪服は娘様——山本さんご本人——に引き継がれました。その後、山本さんのお嬢様も何度かその喪服に袖を通されています。
三人の女性が、同じ喪服を纏って同じ悲しみの場に臨んだ。その三人がそれぞれの時代に流した涙が、布の中に静かに溶け込んでいる——そう思うと、着物というものの深さに言葉を失います。
山本さんは先日こうおっしゃっていました。
「母の喪服を着るとき、不思議と背筋が伸びました。母に恥ずかしくない自分でいなければと、この着物が思わせてくれる気がして」
着物は、亡くなった人との対話の場でもあるのです。
そんな事をお客様に教えられます。
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五 松井家の訪問着——四代の色
当店が誇る最長のお付き合いのひとつが、松井家(仮名)との関係です。
松井家のご縁は、曾祖母様の代から始まりました。明治の末、曾祖母様が当店で誂えた訪問着が、今も松井家に残っています。
白地に松と菊——格調ある古典柄の手描き友禅。今の目で見ても少しも古びていない。むしろ「これが本物の着物の格というものか」と思わせる品格があります。
この訪問着は祖母様から、お母様へ、そして現在の松井さんへと渡ってきました。四代の女性が袖を通してきた着物。
松井さんが初めてその着物のことを話してくださったのは、もう十年以上前のことです。「この着物、まだ着られますか。着物屋さんに見てもらうのが怖くて、ずっとタンスの中にしまったままで」と、恐る恐るお持ちになりました。
見ると、驚くほど状態が良い。多少の変色とシミがいくつかありましたが、専門の処置で十分対応できる。何より生地の光沢と縫いの丁寧さが、百年近い時間を経てなお輝いていました。
「これは蘇ります。それどころか、まだ着られます」
その言葉に、松井さんは目を潤ませてくださいました。
「ひいおばあさんに、まだこの着物が生きていると伝えられる気がして」
処置が終わって戻ってきた訪問着を、松井さんは当店で試着されました。その瞬間、四代の女性の面影が重なって見えました。
着物は、もう会えない人に会わせてくれることがあります。
そんな場に立ち合わせてもらうことが、こんなに幸せな事かと感謝の気持ちが込み上げてきます。
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六 着物を「買う」のではなく「選ぶ」ということ
これだけ長くこの仕事をしていると、わかってくることがあります。
三世代に渡って大切にされている着物には、共通点があります。
それは「誂えた人が、着物に誠実に向き合った証がある」ということです。
流行だけで選んだ着物・値段だけで選んだ着物・その場の気分だけで選んだ着物——これらは往々にして、一世代で役割を終えます。
誂えた人の世代にしか似合わない色・時代と共に古くなる柄・管理が難しい素材——そういう着物は、次の世代に渡りにくい。
一方で、三世代に渡って使われる着物には、選んだ人の「眼力」があります。
時代を超える古典柄を選ぶ眼力。
流行の色より似合う色を選ぶ眼力。
安価なものより長く使えるものを選ぶ眼力。
この眼力は、一人では持てません。着物を長く見てきた人——呉服店——との対話の中で、初めて磨かれていくものです。
良い着物は、良い呉服店と出会ったときに生まれる。
これは自分の店を自賛しているのではありません。
「着物を長く使い続けるためには、信頼できる呉服店との関係が必要だ」という、この仕事の本質を言っています。
当店が四代にわたって奈良でこの仕事を続けてこられたのは、そういうお付き合いを大切にしてくださるお客様がいてくださったからです。
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七 着物を次の世代に渡すために
着物を次の世代に受け継がせたいと思ったとき、必要なことがいくつかあります。
まず「保管」です。
着物が百年後も使える状態でいるためには、正しい保管が欠かせません。
桐の箪笥・たとう紙・定期的な虫干し・防虫剤の管理——この基本的なことを守るだけで、着物の寿命は劇的に変わります。
田中さんの振袖が四十年後も美しかったのは、保管を怠らなかったからです。
次に「記録」です。
いつ誂えたか。どんな場面で着たか。どんな想いがあったか——
これを言葉として残しておくことで、着物が次の世代に渡るとき、単なる「古い着物」ではなく「家族の歴史の証」として受け取られます。
松井さんの曾祖母様の訪問着が今も大切にされているのは、「ひいおばあさんが誂えた」という記憶が伝わってきたからです。
そして「対話」です。
娘や孫に「着てほしい」という気持ちを、直接伝えることが大切です。
着物を押しつけるのではなく「この着物にはこういう思い出がある。よければ着てほしい」と話す。
その会話の中に、着物と一緒に気持ちが渡っていきます。
着物を次の世代に受け継ぐための三つの条件——「正しい保管」「想いの記録」「気持ちの対話」。
この三つが揃ったとき、着物は単なる衣装を超えた「家族の記憶の器」になります。
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八 この仕事の喜び
着物屋を四代続けてきた家に生まれ、この仕事を選んで、今に至ります。
長いようで短い年月の中で、たくさんの「着物の旅」に立ち会ってきました。
祖母から孫へ渡った振袖に袖を通した瞬間に涙ぐむお嬢様。
「母の喪服を着ると背筋が伸びる」とおっしゃるお客様。
百年近く眠っていた訪問着が蘇ったとき、目を潤ませた方。
その瞬間瞬間に、私はいつも同じことを感じます。
着物は人のために作られ、人に纏われ、人から人へと渡ることで、その価値が深まる。
商売の視点で見れば、一着の着物が三世代にわたって使われるということは、三世代分の新しい着物が売れない、とも言えます。
しかし当店が四代にわたって存続できてきたのは、「売る」ことより「長く使われる一枚を選ぶ」ことを大切にしてきたからだと、私は信じています。
三世代に渡って着物を大切にしてくださるお客様が、三世代にわたって当店を信頼してくださる。
この循環が、奈良の小さな呉服店が百年以上続いてこられた理由です。
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「祖母の着物なんです。母も着て、今度は私の娘の成人式に着せたいと思って」
あのお客様の言葉が、今も心に残っています。
風呂敷の中から現れた、50年の時間を纏った訪問着。
その着物をお嬢様に着せたいというお母様の想い。その想いをつなげることが、今日の私の仕事でした。
着物の価値は、値段ではありません。纏った人の数だけ、語られた物語の数だけ、流された涙と笑顔の数だけ——深まっていくものです。
その深まりに立ち会うことができる。それが、奈良の老舗呉服店の女将という仕事の、何物にも代えがたい喜びです。
お着物の保管などクリーニングについては、下の記事を是非とも参考になさって下さい。
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着物のお手入れ完全ガイド|丸洗い・汗抜き・シミ抜き・カビ処理・染色補正まで
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