「飛鳥・藤原の宮都」と着物文化|高松塚古墳「飛鳥美人」に見る古代の色と日本の美意識

奈良の色を読む
高松塚古墳の壁画に描かれた「飛鳥美人」。色鮮やかな衣をまとった女性たちの姿を見ていると、約1300年も前の人々が、どのような色を「美しい」と感じていたのかということに、ふと興味が湧いてきます。
奈良文化財研究所をはじめ、多くの研究機関が「飛鳥美人」として紹介してきたこの群像は、藤原京の時代、明日香の地にどのような色彩の世界が広がっていたかを、静かに、けれど雄弁に伝えてくれます。呉服屋の目でこの壁画を眺めると、単なる歴史資料としてではなく、「色をどう作り、どう纏うか」という、私たちの仕事の原点のような問いに行き着くのです。
約1300年前の色は、今も私たちの着物文化の中で生き続けている。
世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」が伝えるもの
高松塚古墳が含まれる明日香村、そして橿原市・桜井市にまたがる一帯は、2026年7月26日「飛鳥・藤原の宮都」として、宮殿跡、寺院跡、古墳など19の構成資産をまとめた世界文化遺産に登録されました。6世紀末から8世紀初頭にかけて、日本という国のかたちがはじめて生まれた舞台であり、中国大陸や朝鮮半島との緊密な交流のなかで、律令に基づく中央集権国家が形成されていく過程を伝える、世界でも類を見ない遺跡群だと評価されています。
石舞台古墳や飛鳥宮跡、キトラ古墳、そして高松塚古墳。
奈良に暮らし、この土地で呉服屋を営む身にとって、これらの遺跡は決して遠い教科書の中の出来事ではありません。日々店の前を通り過ぎる何気ない風景の奥に、日本という国の始まりそのものが眠っている――そのことを、あらためて胸に刻む出来事でございました。
飛鳥時代、日本の衣服はどのように変わったのか
この時代、日本の衣服には大きな転換が起きています。象徴的なのが、603年に聖徳太子が定めたとされる「冠位十二階」です。徳・仁・礼・信・義・智という徳目に対応させて、冠の色によって位階を表すというこの制度は、大陸の思想を取り入れながら、日本ではじめて「色によって人の位を示す」という発想を明確なかたちにしたものでした。色が単なる装飾ではなく、社会的な意味を担う記号となった、大きな転換点といえます。
中国の史書『隋書』倭国伝には、当時の日本人の服装として「裙襦(くんじゅ)」と呼ばれる衣が記されており、大陸の服制の影響がすでに及んでいたことがうかがえます。さらに天武天皇の時代になると、唐の服制がより本格的に取り入れられ、高松塚古墳壁画の人物像に見られるような、衿を左前に合わせる着装法も大陸の服飾文化の影響が大いにうかがえます。冠位という制度と、衣服そのものの形の両面において、飛鳥の時代は日本の装いが大きく塗り替えられていった時期だったのです。
「色が、人の位を語り始めた時代 」
大陸から伝わった染織と、日本独自の美意識
色が制度と結びついた背景には、染織の技術そのものが大陸から大きな影響を受けていたという事実があります。高松塚古墳壁画の女子群像に使われた赤は、主に「朱(辰砂)」や酸化鉄を主成分とする「ベンガラ」。近年の分析では、衣の桃色の部分から、東南アジアに生息する「ラックカイガラムシ」という昆虫に由来する赤系の色料も見つかっています。緑には孔雀石を砕いた「岩緑青」、青には藍銅鉱を砕いた「群青」など、鉱物や生き物を原料とする顔料が用いられました。いずれも、遠い異国から海を渡ってきた素材と技術の結晶です。

けれども、ただ大陸の技法をそのまま真似たわけではありません。壁画の中で青は、五行思想における東と春を司る色として、東の守護神「青龍」に用いられています。この宇宙観は遣隋使・遣唐使が大陸から持ち帰ったものですが、日本ではその後、鉱物の青とはまったく異なる技法である、蓼藍を発酵させて染める「藍染め」が独自に発展し、涼やかさや清らかさの象徴として、着物の世界に深く根づいていきました。素材や技法は違っても、同じ「青」という色に託す心が、大陸から渡ってきたものを日本独自の美意識へと昇華させていった過程を物語っています。
女将の心のうち
大陸の技術をそのまま受け取るのではなく、そこに日本人らしい静けさや品格を重ね合わせて、ひとつの美意識へと磨き上げていく。この姿勢は、御所解きの草花に四季を映し込む加賀友禅や京友禅・東京友禅にも、そのまま通じるものだと感じます。
古に使われた色(朱色・緑青色・群青色など)も現代の京友禅に美しく蘇っている事を参考になさって下さい。

飛鳥・藤原の時代から続く「日本の美しいものを受け継ぐ」という文化
高松塚古墳壁画が1300年もの間、あれほど鮮やかな色を保っていたのは、石室が凝灰岩の切石で密閉され、内部が長い年月にわたり安定した温度と湿度に保たれていたためとされています。しかし、その保存は決して自然のなりゆきだけで守られてきたわけではありません。高松塚古墳壁画が、長い年月を経て今日まで伝えられてきた背景には、石室の環境に加え、発見後の保存修理に携わる人々の努力があります。1972年の発見後、カビの発生などにより退色や劣化が進み、2007年には石室そのものを解体して修理施設へ移すという、前例のない大がかりな保存修理が行われました。
飛鳥・藤原の宮都に築かれた寺院の多くも、火災や災害で失われながら、その都度、人の手によって再建され、あるいは記録され、今日まで語り継がれてきました。正倉院の宝物が1250年以上にわたり大切に守られてきたことも、同じ精神の延長線上にあるように思います。優れた技法で作られたものであっても、それを次の時代へ手渡すには、絶えざる人の手当てが要る――この国には、飛鳥の時代から続く「美しいものを受け継ぐ」という文化が、確かに脈々と流れているのです。
現代の着物にも受け継がれる奈良の美意識
八月ご紹介した正倉院展の宝物たちも、この高松塚古墳の壁画も、遠く海を越えて渡ってきた素材と、この国で育まれた美意識とが出会うことで生まれた文化です。冠位十二階が色に社会的な意味を託したように、着物の世界でも色や文様には、いつの時代も込められた意味があります。御所解きの草花に宿る四季の眼差し、藍の一筋が絵全体を涼やかに引き締める感覚――その色彩感覚の遠い源流のひとつを辿っていくと、明日香・藤原の宮都で生きた人々の美意識にも、つながっているように思えてなりません。
奈良という土地で呉服屋を営ませていただいていることの意味を、こうした古代の色に触れるたびに、あらためて噛みしめております。
着物は「古いもの」ではなく、時代を越えて受け継ぐもの
着物は、ともすると「古いもの」「昔ながらのもの」として語られがちです。けれども、高松塚古墳の壁画が1300年の時を越えて私たちに語りかけてくるように、そして飛鳥・藤原の宮都が、失われては再建され、語り継がれてきたように、着物もまた、過去に留め置かれるものではなく、時代を越えて受け継がれていく、生きた文化そのものなのだと思います。
一枚の黒留袖が母から娘へ、娘からその子へと着継がれていくとき、そこで受け渡されているのは布地だけではありません。誂えた人の想い、選んだ日の記憶、そして「美しいものを大切に守り、次の世代へ手渡したい」という、この国が飛鳥の時代から抱き続けてきた願いそのものが、共に受け継がれているのです。
女将の心のうち
着物を「終わったもの」として仕舞い込むのではなく、「これから先も生き続けるもの」として手渡していく。
また、お客様の新しいお着物のお誂えを支え、大切にお手入れを繰り返し、次の季節、次の代に受け継ぐ。
それこそが、この土地に生きる呉服屋としての、私なりの役目だと思っております。
女将が思う、飛鳥・藤原と現代の着物
飛鳥・藤原の宮都が世界遺産として認められたことは、この土地に生きる者として、静かな誇りを感じる出来事でした。日本という国のかたちが生まれ、色が意味を持ち、大陸の技術が日本独自の美意識へと磨き上げられていったこの場所で、今日もなお着物という文化が息づいていることに、深い縁を感じずにはいられません。
1300年前の人々が選んだ色と、今日私たちがお仕立てする着物の色は、決して無縁のものではございません。奈良の土地に息づく色彩感覚と、美しいものを受け継ぐという文化を、これからも一枚一枚の仕事を通じてお伝えしてまいりたいと思います。
女将より
飛鳥・藤原の宮都が語り継いできた「受け継ぐ」という営みは、着物の世界にもそのまま息づいています。次の世代へ、そのまた次の世代へと、美しいものをお手渡しできますよう、真心を込めて務めさせていただきます。
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