石川県から奈良へ|三十数年前の加賀友禅黒留袖を、ひ孫の代まで着継ぐために

石川県から奈良まで黒留袖を持参されたお嬢様。三十数年前に誂えられた加賀友禅を、次の世代へ着継ぐためのご相談でした。
朝の予約が一件、静かに書き込まれておりました。「石川県よりお伺いします」と、その一行を見たとき、正直に申しますと少し驚きました。奈良までは、高速道路を乗り継いでも優に四時間はかかる道のりです。それでもお越しになると仰るのですから、よほどのご事情がおありなのだろうと、当日をお待ちしておりました。
約束のお時間より少し早く、店の前に車が停まりました。降りていらしたのは、四十代半ばとお見受けするお嬢様おひとり。後部座席には、大きな桐箱がしっかりとシートベルトで固定されておりました。まるで人ひとりを乗せて運んでいらしたかのような、その丁寧な扱いに、まずこの方の誠実さを感じました。
遠くから選んでいただくということは、
それだけの責任を託されるということです。
「この人しかない、と思いました」とお客様がおっしゃいました
お茶を差し上げながら、まず伺ったのはご来店のきっかけでした。お嬢様は少し照れたように、けれどはっきりとした声でこう仰いました。「実は半年ほど前から、この女将手帖を毎晩のように読んでおりました。着継ぎのお話、着物にまつわるご家族のお話……。読むうちに、母の黒留袖のことも、こちらにお願いしたいと強く思うようになったんです。この人しかない、と」
身に余るお言葉に、思わず言葉に詰まりました。石川にも、金沢にも、腕の良い呉服店は数え切れないほどあります。それでも奈良のこの小さな店を選んでくださったという事実の重みを、まず自分の中にしっかりと据え直してから、桐箱の紐をほどかせていただきました。

御所解きに、藍の流水。作家物の気品
たとう紙を開いた瞬間、その見事な色の配置と細かい糸目に見惚れました。作家物の本加賀友禅による黒留袖。柄付けは御所解き――御殿や庭園、四季の草花を品よく配した、格調高い文様です。裾から立ち上る草花の描写は、加賀友禅特有の写実を極めた筆致で、所々の草花・雲に濃淡のぼかしが幾重にも重ねられておりました。遠近法による遠くの山並みの微妙な色合いの違いがまたこの着物の見どころの一つでもあります。
そして何より目を奪われたのが、藍色でたおやかに描かれた流水の意匠でした。草花の合間を縫うように、一筋の水の流れが裾全体を巡っております。単なる背景ではありません。この藍の流れがあるからこそ、絵全体に涼やかな呼吸が生まれ、華やかでありながら決して騒がしくならない、静かな品格が保たれているのです。
「これほどの誂え、どのようないきさつでなさったのでしょうか」。自然と口をついて出た問いに、お嬢様はぽつりぽつりと語り始めてくださいました。この黒留袖は、今から三十数年前、母が結婚する妹――つまりお嬢様にとっての叔母様の結婚式のために誂えたものだったそうです。当時、母方の祖父が「一人娘の晴れの日には、金沢で一番気に入った作家に頼みたい」と、加賀友禅の工房を何軒も回り、ようやく巡り合った作家に依頼したのだと。
本加賀友禅作家 土田外男 その落款から
華やかな御所解きの中に、あえて涼やかな藍の一筋を通すことで、生涯にわたり着られる品格を宿す――そんな考えのもとに、あの流水は生まれたのだと伺い、一枚の着物に込められた物語の深さに、改めて胸を打たれました。

女将の心のうち
着物を預かるということは、反物と糸を預かることではありません。それを誂えた方の判断、選んだ日の気持ち、その後の年月をともにした記憶までを、まるごとお預かりすることです。
祖父から母へ、母から娘へ。三十数年という歳月の中で積み重ねられてきた想いの重みを前にすると、技術以上に、その重みにふさわしい仕事ができるかを、自分自身に問わずにはいられません。
一枚の着物には、一人の人生が織り込まれています
お母様は、今、療養の身にいらっしゃいます
この黒留袖の持ち主は、ご依頼下さったお嬢様のお母様でいらっしゃいます。今は療養に専念されているとのことで、今回はお嬢様おひとりでのご来店となりました。「母は今、思うように動けない日が続いています。でも、この着物のことだけは、ずっと気にかけているんです。『あの流水の柄、今も綺麗なままかしら』って、何度も聞かれました」――そう語るお嬢様の声には、母を想う静かな覚悟のようなものが滲んでおりました。
三十数年の間には、しまい方一つで生地に負担がかかることもあります。畳じわの奥に潜む変色の兆し、絹の風合いがわずかに硬くなっている箇所。一つひとつを光にかざしながら確かめるうちに、この一枚を単に美しく直すだけでなく、その物語ごと次の世代へ手渡さねばならないという思いが、私の中でいっそう強くなってまいりました。
着物は、時に言葉よりも雄弁です。丁寧に整えられた一枚をご覧になったとき、お母様の中に流れる三十数年という時間が、少しでも穏やかで、誇らしいものになりますように。桐箱を包み直しながら、心の中でそっと願っておりました。
着継ぎの記録

ひ孫の代まで、着られる着物であるために
黒留袖は、人生の晴れの場に幾度も寄り添う着物です。娘の結婚式、孫の結婚式、そしてその先――一枚の着物が三代、四代と受け継がれていくことは、決して珍しいことではありません。お嬢様も帰り際、「いつか私の娘が結婚するときも、その先、孫が生まれてひ孫の代になっても、この御所解きを見てほしいんです」と、はにかみながら仰いました。
だからこそ、私たちが今この一枚に触れる仕事は、目の前のお客様のためだけではなく、まだ見ぬひ孫の代のお客様のための仕事でもあると、いつも自分に言い聞かせております。糸の緩み、シミの兆し、たとう紙の状態。一つひとつを丁寧に見極め、無理な手を加えることなく、この加賀友禅が本来持つ気品をそのまま次の世代へお渡しできるよう、これから心を込めて整えさせていただきます。
女将の心のうち
美しく仕上がった姿を、まずお母様にご覧いただきたい。そしてその先に、お嬢様、お孫様、ひ孫様と、この御所解きが幾度も晴れの日をともにする未来を思い描きながら、これから針を進めてまいります。
店主より
石川から奈良までの遠い道のりを越えてお越しいただいたご縁に、深く感謝申し上げます。お母様がお元気なうちに、美しく整った黒留袖をご覧いただけますよう、そしてこの一枚がひ孫様の代まで晴れの日を彩り続けますよう、真心を込めて務めさせていただきます。
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